drakiti63の日記

私の人となり

信じることと信仰(믿음과 신앙)の違いについて

韓国語では

信じること( 믿음:ミドゥム)と

信仰(신앙:シナン)を

厳密に言えば

明確に使い分けています

ところが

この2つを

自動翻訳機で

日本語に訳すと

どちらも

信仰となってしまいます

韓日辞典で

調べてみると

믿음は

信心、または信仰心、信仰と

なっています

믿음は

信じる(믿다:ミッタ)という

動詞の名詞形であり

신앙は

信仰という漢字の

韓国語での読みです

従って

믿음と신앙は

それぞれ

信じることと信仰と

明確に区別すべきです

そういいながらも

韓国語でも

믿음と신앙

ややもすると

時として

同義語として使われることも

あるようですが

ちゃんとした違いがあることを

知るべきだと思います

信じることとは

知的に同意のみをすること

受動的であり

同意あるいは納得といった

意味を持ちます

一方

信仰とは

能動的であり

実践に移すだけの

確信と信念を意味します

従って

信仰には

必ず信じることが

前提となりますが

信じているからと言って

必ずしも

信仰が伴っているとは

限らないと言えます

即ち

信じることよりも

信仰することのほうが

レベルが高いとも

言えるでしょう

さて

信じることが

知的な納得というならば

信じることの前提は

知ること

言い換えれば

正しく認識することだとも

言えるでしょう

知りもしないで

神様が存在する

存在しないを論議すること

いわんや

神様について

正しく認識していないのに

神様を

信じる、信じないを

語るのは

全く的外れもいいところでしょう

人が人を信じるようになるのは

その人について

よく知っているからであり

知らない人を信じることは

通常有り得ないことです

今回は

私の知る限りの神様については

長くなるので

詳しくは延べませんが

一言でいうと

専門用語では

本性相的男性格主体です

ザックリとかみ砕いて

言えば

父親という表現が

適当でしょう

じゃあ神様って

どこにいるのといえば

時間と空間を

超越した存在なので

どこにいるかという

規定はできないのです

丁度

人間の心が

確かにあるとは

いえども

どこにあるのかとは

言えないのと同じことです

あえて言うならば

神様は

人間の心の中に

存在するというのが

妥当でしょう

ここで

人間にとって

大切なものは

無意識の中に

存在することについて

考えてみましょう

普段は気にも留めていないのに

それがなくなると

突然

その存在を

意識し始めるものがあります

例えば

空気がそうです

人は誰もが

意識しないままで

呼吸をしています

ところが

何らかの原因があって

呼吸困難に

陥ると

急に空気を意識し始めます

神様についてもそうです

誰しもが

何らかの理由で

不安になると

我知らずの間に

切に祈る気持ちに

なるのは

心が神様から

離れるから

そうなるのです

自信がないというのは

自分で自分が信じられないことで

何故そうなるのかといえば

自分の心の神様を

信じられなくなるからです

でも

そんな時こそ

神様がとても近くに

いて下さることを

私は知っています

さて

神様を知る前に

知るべきことがあります

それは

自分自身です

自分をどれだけ知っているか

それが

神様を知ることに

比例するからです

一番、知るべきことは

自分自身なのです

自分を知った分だけ

自分を信じることができるようになる

つまり

自信がつくということです

自分しか知らない

自分があるように

自分しか知らない

神様があるというのです

でも

他の人しか知らない

自分があるので

本当の自分を知ることは

容易ではありません

さあ、あなたも

本然の自分を探す旅に

出かけましょう