drakiti63の日記

私の人となり

暴力の洗礼を受けた20歳

今週のお題「20歳」

私が20歳を迎えたのは

1983年の10月

反共学生運動をしていた私は

当然、左翼学生の暴力を何時かは

その洗礼を浴びることになる

それは、1983年11月29日

今でも忘れられない

左翼学生でも暴力を振るわない者もいる

しかし、中には、目には目をという立場をとらない

私の同士に対しては

容赦なく暴力を振るうものもいる

また、左翼でも、日本共産党とリンクしている

民主青年同盟の学生と

新左翼グループの一つである革マル派

我々に対しては暴力を振るうとよりは

理論派であった

革マル派と犬猿の仲である

最も過激的なグループである

中核派は、革マル派がいた為

我が校には入ってこれなかった

中核派が活動していたのは

私の記憶では

特に、東北大学京都大学

やがて、翌年、更なる暴力を受けることになる

それは、1984年の9月に起きた

韓国大統領、全斗煥(전두환・チョンドゥファン)来日に

反対の狼煙が上がると共に

都内で唯一国立大学で授業があった

我が校に

あらゆる大学の社会主義学生同盟の学生たちが

集まってきてハンガーストライキをしながら

連日、暴力の嵐が吹かせた

彼らは、テロのプロであり

日頃から、訓練を受けているであろう

連携したプレーである

そもそも、多勢に無勢なのだから

挙句の果ては、キャンパスからたたき出された

我がメンバーの一人は

顔面を骨折した

あの時ほど

無力さに嘆き

暴力の恐怖に怯え

何と情けないことかと思ったことはない

慰労をかねて、ファミリーレストラン

ご馳走を振舞ってもらったのだが

落ち込んでいる私に

元気も食欲もない

先輩がどうしちゃったのって

心配してくれたが

言葉がない

そこから立ち直れたのは

20歳を超えた

10月半ば頃であった

仲良しだったメンバーと

韓国語の勉強を始めて

瞬く間に3ヶ月で

基礎的な会話が出来る様になったことだ

7月と11月に

国学生に対して

旅費と滞在費を

教会が出費して

韓国と日本の交流していた

その時、初めて、外国人と

直接外国語で

心情交流できた感動は

私が韓国語を学ぶ源泉となったともいえよう