drakiti63の日記

私の人となり

東大卒業奮闘記

東大生というと

皆さんは

どのような姿を

イメージするであろうか

頭が良くて

何でも知っている

優秀な人物と

言ったところでしょうか

もし、あなたが

そう思っているのならば

とんでもない

勘違いです

確かに

医学部医学科に在籍する

学生はそうかもしれません

しかし

それ以外では

ヒエラルキーが存在していて

ほんの一握りの最上階にいるのは

先に述べた医学部医学科を含めた

スーパー東大生

東大の教授をもしのぐ

超エリート

その下の階層が

所謂、世間様が思っているような

何でも知ってそうな東大生

その下の階層が

普通の東大生で

再度受験しても

東大に合格できる東大生

因みに、専門課程で

理学部や工学部に

進学する理科一類の入試は

5割弱の点数をとれば

ほぼ間違いなく合格です

時々、満点をとらないと

合格できないんじゃないかと

思ってらっしゃる方も

少なからず

いらっしゃると思いますが

これも、甚だしい誤解です

さて

このヒエラルキーの最下層にいる

東大生とは

予備校で受験のノウハウだけを

身につけてきたようなやからで

当然、勉強などせずに

麻雀とナンパと飲み会のことばかりを

目的にしている

東大の面汚しの連中です

そういう私も

さほど、デキの悪い

東大生ではありませんでしたが

信仰の道に来るまでは

全うな東大生という自負はありました

しかし、上記の理由で

学業放棄で

教養課程

通常2年のところを

6年かかって専門課程に

何とか進学できました

土木工学部でしたが

試験は簡単

誰でも合格点の取れる

チョロイモノでした

あんなのちょっとで気のいい中学生だったら

お茶の子さいさいで

パスできるほどのものだったんです

ところが

私、様々な事情から

大学8年の時

統合失調症をわずらい

自力では

卒業論文

書けない状態になってしまいました

通学も病院からでした

ところが

不幸中の幸い

研究室の助手さんが

(今は、岐阜大学で教授をなさってます)

私の代わりに全部

実験から論文まで全てやってくださいました

ところが

たった一つの試練がありました

卒論発表会です

名だたる教授・助教授が集まる

その場で

どんな研究かを具体的に

発表しながら

最後に教授陣から

質疑応答を浴びせられるという

セレモニーです

助手に書いてもらった

論文がただでさえ

ろくに勉強もせずに

試験をパスしてきたから

内容がちんぷんかんぷんで

お話になりません

それで、助手さんが

論文の要約文を作ってくださり

それをわけも分からないものの

暗記して

何とか

この試練をパスすることが出来ました

発表会場の入り口のところまで

助手様が心配されて

駆けつけてくださり

無事にすむことが出来ました

有り難うございました

よく頑張ったと

熱い抱擁を交わしました

ところで

その当日まで

3日3晩

点滴打ってもらえなくても一睡も出来ず

緊張とプレッシャーと心配など

マイナスな気分でいっぱいでした

東大卒と東大中退じゃ

響きが違いますもんね

ただし、これは

出来ることなら隠しておきたい

事実でもあります

そんなありさまで

卒業したなんて

もぐりもいいとこですから

まあ、今回の話は

大事な友達の要望があったので

あえて書きましたが

あまり、人聞きのいい話ではありませんので

ここら辺でお開き

入院生活パート4・人生最高の病院

2008年7月から9月まで

私は

生涯4度目の入院生活を

送りました

病気で、確かに

辛くはありましたけど

楽しい思い出が

沢山出来ました

まず、何が良かったかというと

スタッフの数が

それまで入院した病院と比べて

ずば抜けて多かったことです

特に、看護師さんが多かったです

看護学生の方も

かなり、いらっしゃいました

それで、具合が悪くなると

看護師さんが

話し相手になってくれて

ケアしてくださいます

過去ログで

書いたことありますが

こんな嬉しい体験もありました

通常の睡眠薬

どうしても眠れない時は

追加の睡眠薬

ナースステーションまで

もらいにいくのですが

服用した後

若くて綺麗な看護師さんが

病室まで

腕を組んで

同伴してくださいました

残念ながら

その看護師さん

退職されてしまいました

また、こんなこともありました

私が韓国語ができることを

どこで知ったのか分かりませんが

韓国語を教えてくれと頼まれて

教えていたこともありました

10歳以上も年下の

可愛い女性で

飲み込みもはやいので

大変、やり甲斐がありました

私は、韓国語を

教える代わりに

沖縄語を

沖縄出身の看護師さんから

勉強していました

ハイサイ=こんにちは

チバリョー=がんばって

ニフェーデビル=ありがとう

また、オヤジギャグの友達も出来ました

最初に教えてもらったのは

東京にある西郷隆盛銅像にある

犬は、何ケンか分かるって?

私が、鹿児島県薩摩藩だから)といったら

違うよ、答えは

歩けんとか、動けんだよって

一番面白かったのは

沖縄県の人が好きな図形は

という問題

答えは、大きな輪(おーきなわ)だそうです

最後に

ドラゴンズネタ

入院期間に

ドラゴンズの山本昌投手が

プロ通算200勝をかけて

宿敵、読売と闘ってた試合

消灯時間を過ぎても

決着がつかなかったことで

病室全員が

ドラゴンズファンであったことを

いい事に

ラジオで勝利が決まるまで

みんなで応援してました

他にも書きたいことは

たくさんあります

今、通所している

デイケアという施設があるのも

この病院が初めてでした

診察の待ち時間も短いのも

私にとってはうれしいことです

入院中の時から

とにかく、待ち時間が短いのが

私にあっている最大の長所

美人スタッフの多いことも

そのひとつかな(笑)

とにかく、スタッフの方々や施設のメンバーさんと

知り合いになれたことも

貴重なことでしょうね

最後に、恒例のなぞかけ

不眠症とかけて

世界文化遺産ととく

その心は

寝つけられない(値つけられない)でしょう

入院生活パート3・行列の出来る病棟

今回は

3度目の入退院に

まつわる出来事を

話します

私は

1997年までは

大変、真面目な

統一教会の信者でした

ところが

神様を裏切った為

即ち

恩を仇でして

とんでもないことになりました

それが

以下の通りです

1997年に

韓国の総本山にいって

お祈りをしてもらったら

最初は

しんどかったのですが

お祈りを受けた後は

一切、薬を飲まなくなりました

1週間、2週間

時を過ぎるごとに

病気の症状が

出てこないようになり

遂には

健常者同様になり

読書家にもなりまして

頭が啓発されました

遂には

現役で大学を合格した

そのピークの時点よりも

遥かに

勉強が出来るようになっていました

それで、家庭教師の仕事も

何のプレッシャーも感じることなく

むしろ、面白、楽しく

こなすことが出来ました

ところが

いい事は長続きしないもので

お祈りをしていただいた時の

戒めを破り

体たらくな生活を

送るようになりました

その上、自信過剰が度を越して

傲慢不遜になって

遂には

病気が再発してしまいました

そうするともう

みるみるうちに

崖から転げ落ちるようにして

症状が悪化して

挙句の果てには

再入院ということになりました

これが

3度目の入院に至った

あらましです

入院生活は実に退屈で

何が苦痛かといえば

長蛇の行列を

一日に

何回も何回も

並ばなければならなかったことです

1日3度の食事の度

食後の薬と寝る前の薬の配布の度

最低、計7回は

ならばなくてはなりませんでした

待つのが苦手な私には

ストレスで、ストレスで

到底我慢が出来ませんでした

それで

病状がよくなってもいないにもかかわらず

自ら志願して

1ヶ月もしないうちに

退院してしまいました

ここで

なぞかけ

松竹梅とかけて

行列の出来るラーメン屋さんととく

その心は

まつたけうめ~でしょう

でも、これは

私は苦手

あてはまるのは

大学病院での診察とかけて

行列の出来るラーメン屋さんととく

その心は

待たせるだけ待たせて

本番はあっという間でしょう

これは、私のようなせっかちな人

でも、皆さんの中には

その心は

本番に期待を寄せながら

とことん待つでしょう

って方もおられるでしょう

それでは

本日は

この辺で

お開き


Olivia Newton John Don't Stop Believin'

入院生活パート2・初めての閉鎖病棟

病気になって

2度目の入院は

1994年10月末のことでした

家内との関係が

悪くなったのが

最大の原因でした

それにもかかわらず

テンションが高くなって

一気にうつ状態になって

最初に入院した時のような

精神状態になって

何も考えずに

救急車を呼んで

とにかく、入院させて欲しいと

頼んだら

2時間以上かけて

山奥の人里はなれたところにある

とんでもない精神病院に

入院させられました

最初の1週間は

保護室という

言ってみれば

囚人の独房みたいな環境で

食事と薬の時間以外は

飼い殺し状態でした

何か要求があって

職員を呼びたくても

返事がなく

暇つぶしできることは

何もなく

時間も分からず

実に苦痛以外の何物でもありませんでした

おまけに

たまに現れる

主治医は

切れやすいタイプで

訳の分からない間に

怒って消えてしまうような

無責任極まりない人でした

ようやく

保護室から

解放された後は

病棟に移されましたが

そこも、地獄のような場所でした

まず、病室には

ベッドがなく

雑魚寝の状態でした

眠剤

患者によって

症状が違うのに

ロフィプノールという薬に

統一されてました

毎日の検温や便の回数は

職員ではなく

患者がチェックしてました

全ての患者が

病院に対する

不平不満を言ってました

中には

怖いヤクザのような

お兄さんもいて

脅されたこともありました

C型肝炎の患者さんもいて

移されるんじゃないかという

不安もありました

看護師さんも

2人を除いて

変な人たちばかりで

何か要望を出しても

今は忙しいからダメって

いつも、冷たく

あしらわれてました

主治医との面談も

相変わらず

切れてばかりの状態で

話になりません

外部との連絡も

とにかく

一台しかない

公衆電話の取り合いで

なかなか

思うように出来ませんでした

頭の中は

はやく、ここから

抜け出さなくてはという

思いでいっぱいになりました

それで

外面的にいい子を

装って

年末の外泊の許可をもらって

そのまま

強制的に退院しました

2度と入院したくない病院でした

それでは

なぞかけで

お開き

病人とかけて

梅雨の合間ととく

その心は

ヤンデイルでしょう

英数国は、日頃から、理社は、1週間前から

今週のお題「テスト」

英数国は

毎日の積み重ねで

テスト直前は

日頃から

コツコツというよりは

ビシビシとやってました

ただし、それは

高校受験まで

高校入学後は

学校のテストなんて

受験には

さほど関係ないや

と割り切って

テストは

完全に手抜きでした

別にいい点取ったって

肝心の本番で

合格しなくちゃ意味ないから

理科社会は

中学の時は

テストの結果が

内申に影響するので

如何に暗記してるかが

問われるため

直前の1週間前から

準備してました

私の高校受験の時には

英数国だけだったので

理科社会は

中間テスト・期末テスト・実力テストの結果次第だったので

テストの直前は

我ながら実に根をつめて

勉強してました

ところが

高校では

授業をサボったり

テストもサボったりで

物理以外は

みな苦手でした

特に

国語は

最悪で

高校1年の最初のテストで

現代文が

クラスのビリでした

ところが

英語については

クラスで

ダントツのトップになりました

ところで

大学時代は

といえば

信仰に目覚めてしまって

学業放棄の有様

何回、再テストを受けたのやら

辛うじて

信仰の道に入る前までは

それなりの点を取っていましたので

平均点合格で

教養課程を

本来2年のところを

6年かかって

専門課程に

進学できました

専門課程では

毎年の試験問題が同じなので

テスト前に

クラス全員に

配布される

問題と解答を

直前に丸暗記して

乗り越えました

今でも

大学時代に

卒業までのテストに

準備できていなくて

焦っている

夢を見ます

では

今回も

恒例のなぞかけで

お開き

大学受験のテストとかけて

赤ちゃんに生えた歯ととく

その心は

入試(乳歯)でしょう

入院生活パート1

今回から

4回にわたって

私の入院生活のあらましを

綴っていきます

私が

初めて

入院をしたのは

1989年5月18日

大学8年生の時でした

何故、8年かを

話すと長くなるので

また、別の機会に

今回は

割愛します

入院にいたる経過も

同様に

割愛します

ただ、発端は

自分の体の中に

何かの存在が

侵入してきて

心と体を

のっとられました

暴れて

3人がかりで

取り押さえられて

一晩中

梗塞されました

そして

夜が開け

教会病院に

連れて行かれて

注射うたれて

1日半

爆睡しました

それでもう大丈夫と思いきや

入院生活を

強いられました

はじめは

テンションが目茶苦茶高くって

他の患者さんに

迷惑だとも思わずに

病室を

引っ掻きまわしていました

しかし

日を追うにつれて

だんだんテンションが

さがりはじめ

落ち着きがなくなり

心臓が圧迫される

症状が出始めました

そしてさらには

その状態から

逃げる為に

自殺したいのではなく

自殺するんじゃないか

という妄想に

とらわれるようになりました

その時

私のカウンセラーを

してくださった方が

高校の先輩で

本当によくしてくださいました

主治医がそのことを

ご存知なかったので

あとで、理由を知って

何故、そこまで

一人の患者に対して

特別待遇をしているのかが

分かったと仰いました

ところで

話が前後するのですが

その病院は

一般病院だったので

精神病院と違って

独房はなく

ほとんどは

外科や内科の病気の患者さんばかりで

精神病の患者さんは

2、3人しかいませんでした

看護師だった家内が

その当時はまだ

婚約中で

精神病だったら

婚約を破棄することも考え

病院に私の病気の真相を

確かめていたみたいで

でも、幸か不幸か

病院側は

統合失調症(当時は、精神分裂病といわれてました)であることを

否定したので

今日があります

一般病院だからこその話です

ところで

話がまた跳びますが

私が妄想にとらわれて

うつ状態の極限に陥っているとき

主治医の先生からは

病気から逃げちゃダメだ

その妄想とも

正面から向き合って

握手して

友達になりなさい

慌てず、焦らず、諦めずに

やっていけば

必ずよくなると

言われました

やがて、妄想は消え

主治医先生から

ここまで来るのが大変だったんだぞ

一時は

精神病院への

転院も考えたが

よく耐えたなって

いわれました

しかし

その後が長かったのです

重度の不眠になり

金槌となりました?

その心は

スイミンgに苦労したということです

毎晩、毎晩

ナースステーションに通い

追加の眠剤飲んでも寝れず

一般病院だから

薬もそんなに効くようなものなくて

睡眠には

本当に冗談抜きにして

苦労しました

私に与えられた日課は

眠れても、眠れなくても

毎朝、ナースステーションの

モップがけをすることでした

やがて、入院していても

病状がよくなるわけでもないと

判断されたのか

1年4ヶ月で

最初の入院生活に

終止符を打つことになりました

その時、看護師さんたちからは

退院おめでとうといわれたのですが

同じ病室で

仲良くなった韓国人留学生が

病気が治ったわけじゃないんだから

おめでとうはおかしいだろうって

私の気持ちを大便じゃなくて

代弁してくれました

とても嬉しかったです

韓国人はヤッパリいいなあ

と思いました

今でも忘れられないのが

病院で、数少ない、心の友達になってくれたのは

龍の刺青をした

おじさんで

病院食がまずいからといって

お寿司や中華料理を

おごってくれたことです

いつも、軍歌を歌っていて

私をよく冗談言っては

笑わせてくれた

優しいおじさんでした

そして

今残念なことは

その主治医先生が

ミイラ取りがミイラになってしまい

薬を服用することになって

病院を辞めさせられたことと

先輩のカウンセラーの先生が

肝臓がんでお亡くなりになってしまったことです

とまあ、今回も

あまり、略脈も感じてもらえない

記事になりましたが

最近、友達が教えてくれた

癒し系の動画と

なぞかけで

お開きです


Backstreet Boys - Shape Of My Heart

グレープとかけて、空手ととく

その心は

葡萄(武道)でしょう

6.25動乱

今日

6月25日は

韓国で

1950年

北と南が

内乱に突入した日です

日本で、一般には

朝鮮戦争とよばれています

奇しくも

67年前と

同じ日曜日です

その血の代価で

日本は

イワユル

朝鮮特需で

景気が良くなり

高度成長の足がかりとなりました

北と南が争う中で

漁夫の利を得たようなものです

私は

この事実に

胸を痛めます

もしも、魔法が使えたなら

韓半島の平和統一を

実現させたいものです


우리의 소원 - 이지연(1989)